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太陽


東京で8月上旬に公開されてからようやく本道上陸。今日が初日。2回目の上映分で観ました。

おすぎさんだかピーコさんだかが国内公開前、「ひとつの映画作品として観るもの」と評してました。同感。
日本が米国に負け、天皇陛下がマッカーサーに会った、という史実以外はすべて疑わしい。日本人なら、右だろうと左だろうと明らかに間違いだとわかる場面も多々登場します。皇居で鶴を放し飼いにしていたり、ただでさえも蒸し暑い東京の夏が冷ややかに霞がかっていたり。その辺はフィクション。というよりは、ソクーロフのイメージの世界。願わくは、この作品が日本を語る際の歴史・文化の資料になりませんように。「SAYURI」でもたいがい日本を誤解させていることだし。

見所は、イッセー尾形のひとり芝居。「はい、チョコレートおしまい!」など、昭和天皇ではなくイッセーさんじゃん、といえる演技がところどころ出てきます。演じ切れなくなって素に戻ったような。

誰も描かなかった昭和天皇、という触れ込みがこの作品には付いています。
描かなかった、というよりは、描いてはいけない、描くべきではない、そういう対象だったのではないでしょうか。天皇の神格化とか右寄りな話とかではなく。
過去の邦画でも終戦時を扱った作品はたくさんあります。「日本のいちばん長い日」などは岡本喜八監督の傑作。そうした作品では、陛下については登場人物間の話題にはのぼります。「国体は…」とか。でも実際に陛下役が登場するのは、後姿とか、そこにおられるという雰囲気とか、曖昧な形です。

昔は、今ほど皇室が軽んじられていなかったので、陛下の役を演じるなんて畏れ多いというのが主因だったかもしれません。が、だからこそ、邦画に奥行きがあったのだと解釈したいものです。能でも歌舞伎でも、そこに主要人物として存在しながら、何も語らずに舞台からひく、という演出があります。

今思えば現人神なんてありえない、当時だって信じていなかった、という年配者は多いでしょう。が、当時はそういう時代だったのも事実。そんな時代を映像化するにあたり、昭和天皇を抜きには語れないのもまた事実。でもその昭和天皇御自身が主役で、その口から心情を吐露しちゃあ、直球勝負過ぎる。悪く言えば、野暮。

周囲の侍従やら大臣やらマスコミやら軍部やらが、天皇陛下の気持ちを推測し、同時に利用し、その結果が敗戦だった、という描き方が結局のところ、作品としてきれいにおさまるもの。今作を観てそう感じました。その意味でも、昔からすでに天皇陛下は「象徴」を担う役回りだったといえるのでは。

札幌劇場にて(会員ポイントたまったのでタダ)
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by top_of_kaisya | 2006-09-30 14:47 | 読/見/観