火曜日の動静

道新夕刊コラム「魚眼図」。
今日は北大のフィリップ・シートン准教授による「英国人の参拝」。

8月14日、イギリスで極右とされる国民党副代表が靖国神社を参拝した。
本国メディアはこれを批判。内容は中国・韓国がよく使うフレーズ。
追求に対し副代表は「祭られている人はお国のため戦った人」「当時として正しいことをやっていた」と回答。
極右政党よりもBBCアナウンサーの方が愛国心旺盛、とシートン先生は分析。

ここまではいい。

文中、「日本の右翼団体代表がロンドンでの戦没者記念碑に献花すればどうなるか」と先生は疑問を呈す。
これがよくわからない。
どうなるか、つまりは本国の批判を受けるだろうと言いたげ。
しかし愛国者たる者、母国のために戦い亡くなった人々へ哀悼の意を表すことに反対しているわけではない。
米国を訪れたらアーリントン墓地で献花。敵味方はどうあれ、その姿勢に頭を下げる。
海外の戦没者墓地で献花しておきながら、靖国参拝を拒むから、腹立たしいだけ。

イデオロギーにしばられて死者を冒涜するのが、ひととして真っ当なのか。
まずは海外同様、靖国でも追悼し、その上で、それでもA級戦犯の合祀は…の議論に入るならまだしも。

産経新聞の大野敏明編集委員は8月に展開された多くの反戦ドラマ・記事に触れ、違和感を2つあげている。(8月29日付 from Editor
1つは登場する多くの人々が「戦争はいけない」「どんなことがあっても平和が第一」と声をそろえていることだ。だが、「戦争はいけない」と叫ぶことは、どこかに「戦争はいいこと」と叫ぶ者がいて初めて意味をなす言葉である。いったい、いまの日本のどこに「戦争賛成」「戦争をやれ」と叫んでいる人がいるのだろうか。戦争反対に異を唱える者などいない。それよりも「なぜ戦争をしたのか」、あるいは「戦争にならないようにするにはどうしたらいいのか」を問いかけることの方が意味があるのではないだろうか。
 もう1つは、当時を知る多くの人が、「戦争に駆り出された」「拒否できなかった」「いやいやだった」とインタビューなどで答えていることである。もちろん、そういう人もいるだろう。それでも、こう口をそろえられてしまうと、そう言わされているのではないか、あるいは、そう言う人ばかりを集めたのではないか、とさえ考えてしまう。出征した人の多くは「国のため」「家族のため」「愛する人のため」「アジア解放のため」に、苦労を承知のうえで勇んで戦地に赴いたのである。
 それを「騙されていたのだ」という人も多いが、それなら、現代のわれわれも誰かに騙されていないといえるのか。
 戦後、「実は私は戦争反対だった」といい子になる人はどこにでもいる。しかし、それは、当時「聖戦」を信じて戦った人を侮辱することにならないだろうか。自身は安全地帯に身を置いて、後付けの議論で過去を断罪することは誰にでもできる
20年前のバブルだって、はじけるとわかっていたら借金してまで土地を買ったりしないでしょう。にほんブログ村 経営ブログ 二代目社長へ

午前 会長。ビッグイシュー卸。
午後 帰社。来客。会長。
  ロータリー財団奨学生送別会(sala da pranzo かね松)。
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by top_of_kaisya | 2010-09-07 18:41 | 社長の孤独な仕事 | Trackback | Comments(0)
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